「社長」は本来、もっとエライ存在のはず
「社長」という存在は本来、大企業の地方支店長や労組幹部よりは偉い存在のはずです。会社の債務の個人保証をして一生懸命会社を切り盛りしている地元の企業の社長には、リスクに見合った敬意が払われるべきではないでしょうか。
日本の社長は、会社の債務の個人保証をしている
経営者の視点から、敢えて誤解を恐れず言わせていただくと、社長というのは「偉く」なければおかしいのではないでしょうか。
何を言っているのかと思われるかもしれませんが、例えば鹿児島でも、一生懸命会社を切り盛りしている地元の企業の社長よりも、東京の大企業からやってきている支店長の方が、レストランなどで羽振りよくワインを飲んでいる様子を見ると、あまりよい心持ちはしません。
この国における社長って、そんなに地位が低いものなのでしょうか。
企業経営者は、会社の債務の個人保証をして「背水の陣」で戦っているんです。もし負けたら、みんな破産してしまいます。自分も家族も路頭に迷います。しかし大企業のサラリーマンは、会社の借金を自分で背負っているわけではありません。だから長銀や山一などのつぶれた金融機関の人たちも、次の新しい職場で新しいスタートを切って活き活きと働いている人も少なくないわけです。
そう考えると、経営者の背負されている負担と比べると、経営者のステータスはあまりにも低すぎないでしょうか。
経営者の健全な精神と行動こそが、資本主義の駆動力である
昔であれば、社長は「従業員の家族の面倒まですべて自分の肩に掛かっている、だからどんなに小さくても社長は社長だ」といった自負があり、また社会的にもそうしたステータスが認められていたと思います。
またそうした姿勢を見て、地方支店に赴任してきている銀行の支店長も、相手の社長の人物を見て金を貸すかどうかを決めるという判断を行っていたし、その会社を育て上げて銀行の業績に貢献し、重役になっていったように思うのです。
しかし現在では、金融検査マニュアル通りの判断で機械的に金を貸して、うまくいかなければさっさと貸しはがした銀行員がうまく出世をして、東京に戻ってレストランで高級ワインを飲めるという形になっているように思えてなりません。その一方で貸しはがしにあって破たんした地方経営者の方は夜逃げ同然で、ワインを飲むどころの騒ぎではないというのは、果たしていかがなものでしょうか。
つまり私は、地方経営者のみなさんに、もっと自分に自信を持つように申し上げたくて、あえてこのことについて触れているのです。経営者である以上、自助自立、反骨精神を持ち、自分の自尊心を大切にして堂々と行動し、言うべきことは遠慮せずに主張するべきです。その裏には、個人債務保証をしたうえで結果責任を取るするという、サラリーマンの持ち合わせない度胸があるわけですから。
だからあえて「社長は偉い」と言いたいのです。別に威張れと言っているわけではありませんが、経済学的にも、そのような人々が頑張らないと、「官僚化が進行した資本主義の経済は崩壊してしまう」とシュンペータも予言しているわけで、現在の状況は不幸なことに、彼の予言にどんどん近づいていっているように私には思えてならないのです。